複雑なわたしを複雑なまま生きる

わたしとは何か?どうなっているのか?仕組みや構造を考えるのが好きだ。またそれを何かしらの形にして残したいという基本的欲求をどうしようか?という問いに対する答えの一つが、アーティストとして旗を掲げることだと一昨年くらいから、改めて思うようになった。

表現の前に、動く身体と心があり、膨大な情報があり、社会があり、個としてこの世に解き放たれたはいいが、よって立つ大地とのつながりを見失った薄っぺらな状態をなんとかしなくてはならなかった。それなしの表現には向かっていけなかった。

なぜだか知らねど、つまりは、成人するまでの間に、その「基本的人権」とも言っていいような拠り所がなく、方法論も確立できなかったのだった。そのために、まずは、たまたま居着いた地域に根ざし、他者と様々な体験をして、言葉を交わし、人と社会と私を観察し、文字通りの足元の大地と親交を深める必要があった。

そうこうするうちに、この地に根付いて10年以上の時が過ぎ、ようやく、ただの人、ただの命として、「ただ居る」ことに不都合や不自然さを感じることがなくなったように思う。何億光年も続いてきた「存在としてある」という地平に降り立つこと。

近頃は、目に見えるものから見えないものまで、多くの存在とともに生きている実感がある。

それらとの意識に昇ってこないような無数の対話の感覚が、言葉になる。紙人形になる。

そうすると世界が安らぐようなのだ。それは他の方法で感じる安心感、喜びや楽しさとは地平が違うので、混ぜることができない。そこから、アートというカテゴリーが世に用意されているのは、そうとしか言いようのないものが現実にあるからかもしれないと思うようになった。

自己実現や、自己表現、承認欲求ではない、個の花の咲く創作。
そのように幻想しているだけなのかもしれなくとも、それを、愛おしいと思う。

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